「院長 大鹿栄樹」挨拶
始めに
2004年5月17日に、この地で開業し21年目を迎えようとしています。
医師としてのキャリアも気づけば43年越えとなります。
「清見ファミリークリニック」と言う名称は、地盤も縁もゆかりもないこの地で50歳を前に開業するにあたり当時は登録する医院名称にも様々な規制がありました。それまでの自分のキャリアや研究・専門性を生かしながら地域医療に長く貢献出来るようにと考え、地域名の「清見」と赤ちゃんから成人・お年寄りまで家族で受診・相談してもらえアレルギー・一般内科・救急医療の経過も生かしながら家庭医としての医療を目指し、当時としては珍しい「ファミリークリニック」と名付けました。
臨床・研究の経歴
小児科所属時代
生まれも育ちも北海道。埼玉医大卒業後の2年間の初期研修を大学小児科学教室で行い、県内唯一の大学病院では365日・昼夜を問わない外来診療と血液・神経・発達・新生児・未熟児・腎臓・消化器・心臓循環器・内分泌・アレルギー免疫疾患患者さんに加えて、重度心身障害施設・光の家での治療・対応を学びました。
その後1年間、熊谷総合病院での勤務後、北海道へ戻り北海道大学大小児科・札幌医科大学生化学教室で臨床と基礎研究を行いました。北大では多くの先天性免疫不全の患者さんの治療・研究に携わり、日本で初めての遺伝子治療の現場にも立ち会えました。札医大では喘息の原因となるヤケヒョウヒダニの飼育増殖・抗原蛋白抽出・精製・抗原部位決定などの研究を行い博士論文となりました。当時、同教室では新生児の肺発達にも深く関わり感染免疫にも関連するサーファクタント・アポ蛋白(SP-A、B、C、D)研究のトップランナーでもあり、特にSP-Dの測定検査は成人の間質性肺炎の検査診断項目にKL-6測定と共に必須検査にもなっています。
北大・札医大の北大非常勤医日給7000円・札医大無給研究生時代には北海道各地の日帰り・3日間・1週間・1ケ月出張勤務を行い、函館中央病院、長万部町立病院・倶知安総合病院・池田町立病院・大樹町立病院・釧路労災病院・網走総合病院・稚内市立病院・帯広厚生病院・夕張市立病院・恵庭医師会夜間病院・弟子屈での乳幼児健診・歌志内での塵肺患者さん自宅への訪問・往診診療・札幌市内での精神科病院での当直業務など様々な医療に携われる事ができました。一人医長や一人当直も多く、広い北海道では近隣の基幹病院まで救急車では何時間もかかることもあり、北海道警察(道警)や自衛隊にヘリコプターや飛行機を依頼して救急同乗搬送を行うこともありました。それでも救えない命もあったり・助かっても後遺症を残すことになったり忸怩たる思いをした事も何度かありました。それらの経験・思いは必要な検査・結果に基づく早期診断・治療方針の提示と期間・必要に応じた専門機関・専門医への紹介という今の診療方針・基本姿勢になっています。
米国・ピッツバーグでの基礎研究時代
北大・札医大での基礎研究での医学博士取得後にポスドクとして米国・大学研究室のインド人ボスから給与(当時の83円レートで200万程)を頂き留学・研究する機会を頂きました。埼玉医大の講座助手のポストも継続・併任し家族と渡米いたしました。現地での1年契約は年々給与をアップして頂き3年間にわたる肺サーファクタントや肺気道研究、コロナ下での治療で有名になったデキサメサゾンとラット胎児肺発達との関連研究・論文作成に繋がっていきました。米国での論文は雑誌の表紙にもなりラボ廊下に額に入れて飾られ感激した思いがあります。同時に日本中から集まってきた多くの研究者・移植医療医師・企業から派遣されてきた多くの人々との交流にも恵まれました。また、米国流の働き方や余暇の過ごし方・家族との交流も兼ね車で北米中を旅行しました。高速道路は無料のフリー(無料)ウエー、ガソリンは1ガロン・約3.6リットルが当時150円の時代でした。ビールも6本で当時150円位でした。古き良きアメリカ・日本人にとっては羨望のアメリカ生活でした。渡米中に関西淡路震災・オウム真理教によるサリンテロなどの出来事などが起こりました。帰国後に引き継ぎの後輩が在米中には9.11テロも起こり、現在の混沌とした世界情勢に繋がってきたようです。在米時代は医療保険への加入が高価で保険は入るのではなく買うものであることを知り加入料により医療施設や医師も限定される状況に日本の皆保険制度をうらやましく思うとともに少子高齢者時代へ向かう国の将来への危惧も覚えたものでした。
小児科・呼吸器・アレルギーから救急部・ER時代
帰国後、小児科へ一旦復帰しました。医師となり14年目になっていました。入局当時40年前の小児救急は過半数が感染症・喘息発作でしたが、インフルエンザ桿菌タイプB(ヒブ)や肺炎球菌ワクチンの公費・定期接種化による感染症の減少、ワクチン定期化へ尽力していた北大・千葉大のウイルス・感染症専門医の方々の指導を受けられたことにも深く感謝しています。喘息ガイドラインによる吸入ステロイドや抗ロイコトリエン導入による治療の平準化やモノクロナール抗体による先端医療などにより時間外救急受診や合併症の気胸や呼吸困難などの重積状態もほとんど診なくなり喘息研究や小児科から一旦離れる事にしました。
院内でのヘッドハンテイングを経て時間外・救急依頼を一切断らないという方針の下で誕生した同大学・初代救急部・ERに所属し、他科の専門エキスパート達(脳外科・胸部外科・整形外科・循環器科・神経内科や外傷・薬物も含めた東大・順天大から招聘された救急専門医の指導の下で務めた4年半は外傷・事故・自殺・熱中症・電撃傷・薬物中毒・精神疾患や急性脳疾患・精神疾患・循環器疾患など多くの疾患・対応にあたりました。同時に学内ほぼすべての科からローテートで勉強に来る多くのレジデントたちへの教育・指導にもあたりました。札医大・生化学無給研究生時代、夕方になると各科での仕事を終えてから研究室に集まってくる呼吸器内科・整形外科・体育学部出身研究生・眼科医たちとの交流のように多くの他科の世代を越えた若い先生達とも知り合えました。
最後に:開業までの数年
救急部での4年半はあっという間でした。小児救急での教授という道も提示されましたが、40歳も半ばを越えて将来のこの国の医療や家族の事も考えて都内・代々木八幡での内科・小児科・呼吸器・アレルギー医としての外来・当直と慢性疾患・長期入院・看取りの病棟の受け持ち・治療・回診など行っていました。場所柄NHKも近く、時折、芸能人や俳優・アイドル達の受診や入院もあり自分の娘たちをダシにして何人かのサインをゲットしたりしました。その後、開業予定地・予定日が固まるにつれて、新生児・乳幼児・小児の感を取り戻すため産科病院・小児科に勤務しハイリスク分娩や緊急帝王切開の立ち合いや新生児救急搬送などに従事したのち、この地での開業に至りました。
そして、今
開業して20年が過ぎました。
当初のファミリークリニックの目論見は数年でほとんど小児専門・子供クリニックになってしまいました。今ほどSNS発信などの少ない時代に、知り合いなどによる本来の本当の口コミの結果のようでした。
開業後、三陸沖大地震・原発事故があり、スーパーの撤退や変遷、企業・工場の移転や新たなショッピングモール、高層マンションの出現などでクリニック周囲の風景もすっかり変わってしましました。その中でコロナ感染症が出現しました。多くの物事やシステムが変わる中で、元々小児科医は感染症とは切っても切れない関係でもあり、多くの感染検査治療難民が出始めた時に、当院は大きく舵を切りました。深夜・早朝まで検査・診断・連絡・治療の日々を数年過ごしました。多くの初めての患者さんとも接しました。
一息ついた昨今は、その時の患者さんが久しぶりに初診受診して頂いたり、開業当初の赤ちゃんが成人・社会人になり、当時の若かりし親たちは成人病予備軍で、自分は後期高齢者域に達しながら、自分の体力と相談しつつ実家の98歳と96歳の両親の介護をしながらの外来診療となっています。時々、臨時休診もらっています。
幸い専門医でもあるアレルギー分野・アトピーや食物アレルギー・呼吸器疾患・喘息の受診者も多くを占めるようになってきました。家庭医療に近い外来になっています。
開業当初からの現在の順番待ちシステムでは待ち時間が長くなることも多くあり、予約制にしようか迷いつつも、いつでも直接来院でき気軽に何でも相談できる本来の医療に立ち返って日々の外来を行っています。そう、当初・開業時の理念、地域に根付いたホームドクター「清見ファミリークリニック」を実践しようと心がけています。

清見ファミリークリニック
院長 大鹿 栄樹
経歴
- 1983年3月
- 埼玉医科大学医学部 卒業
- 1986年4月
- 北海道大学 小児科(免疫・アレルギー班)
- 1989年9月
- 札幌医科大学・第一生化学教室
- 1994年11月
- 米国ピッツバーグ大学・分子病理部門
- 1997年11月
- 埼玉医科大学 救急部・講師
- 2002年4月
- 荘敬会 井上病院(東京・渋谷)内科 勤務
- 2003年6月
- 恵愛会 恵愛病院 勤務
- 2004年5月
- 清見ファミリークリニック 開院
埼玉医科大学・小児科(アレルギー)非常勤講師
資格・学会
- 医学博士
- 日本小児科学会 小児科専門医
- 日本アレルギー学会 アレルギー専門医・指導医 評議委員
- 日本医師会認定産業医
- 日本内科学会
- 日本小児アレルギー学会
- 日本小児難治喘息学会
- 日本小児呼吸器疾患学会
- 日本小児感染症学会
- 日本救急学会